南出明子さん「異文化と共に生きる。サンキム・カナンスクールの挑戦」

 カンボジア・コンポンチュナンに、シンガポール人のキエン・タンさんと日本人の南出明子さん夫婦が仲間とともに作った学校があります。クメール語の「希望」=サンキムを冠したサンキム・カナンスクール。2009年に15人の幼稚園児と3人の常勤教師で開校し、2011年には小学1年生を迎え入れ、現在は高校二年生まで650人が通う幼・小中高の一貫校となりました。



 明子さんご夫妻は当初シンガポールからカンボジアへ通っていましたが、2017年にコンポンチュナンに移住。学習環境が整わない子供たちのための寮「ベタニ―ハウス」を作り、ご夫妻は「ハウスペアレント」としてそこで5人の生徒と暮らしを共にしています。

20代、日本を代表する商社で国際的に活躍をしていた明子さんが、キエンさんと出会い、シンガポール社会で暮らし、今はカンボジアでカンボジアの子供たちと共に生きている。その過程で異文化の人々やご自身と、どう向き合ってきたのか。お話を聞きました。



◆「日本人」を削らずに


――明子さんがシンガポールで暮らし始めたのは、ご結婚がきっかけで、1990年、29歳のときと伺いました。


 はい。夫とは仕事を通じて知り合い、結婚しました。日本はバブル経済のころで、多くの人が仕事や会社が人生の中心と信じていた時代です。会社の仕事はやりがいがあり、楽しく充実していましたが、「会社中心の人生」は違うな、と私自身は思っていました。歯車のようにはなりたくない、と思っていました。

 シンガポール人の夫には「個で生きる力」があり、魅力を感じて結婚しました。ですが、シンガポールの生活は想像以上に厳しいものでした。シンガポールの人たちは何でも直球ですので、遠慮がないというか、日本人同士の忖度や共感とは全く違う付き合いでした。飲み物ひとつ選ぶのも「なんでもいい」はあり得ない。「え、自分が飲みたいものが分からないの?」と、なるのです。何かを買うときも定価ではなく交渉、交渉。日本人だと分かると、足元を見られるように高くふっかけられました。

自分とは異なるカルチャーを持つ国シンガポールで、いろんな違いが私の「日本人らしさ」をあぶり出し、自分の期待に反して好きになれない、私には優しくない国だと思うようになっていきました。

 それが変化したのは、子供が生まれて母になってから、かもしれません。一時的な旅行者としてではなく、シンガポールで、この国の人々と対等に社会に関わり、根を張っていくには、「日本人の私」をどう取り扱っていけばいいのか。予想もしなかったアイデンティティの定義を、自分で探さねばならない。シンガポールでは、現地の日本人コミュニティーの中で生活していたわけではなく、自問が続いていた日々でした。

あるとき、初めてお会いしたオーストラリア人の方に「日本人ですか」と聞かれました。私は「またか。また私の日本人っぽいところが出ちゃったのかな」と、がっかりした顔をしたのでしょうね。その方は、「アキコは日本人のいいところ、美しいところをたくさん持っている。それを隠すことはないよ」とおっしゃったんです。

 私は、異国で上手に生きていくためには、その社会に「溶け込んで」いかなくてはならない、と思っていました。溶け込むというのは、自分の中の「日本人」を少しずつ削り落としていって、いつしか「現地化」して、そこで初めてその国の一員になるのだ、と。ただ、そうして溶け込んで、現地値で物が買え、交渉に慣れたとしても、フツフツとした「抵抗」が、自分の内のどこかで頭をもたげました。「それでは今までの私の日本での人生、価値観、経験値は必要なかったことなのか」と、また自問が始まりました。

 でもこのオーストラリア人の方が教えてくれたのは、100%の日本人であるアキコはそのままでいいということでした。私の中にもう一人のアキコを生み出し、異なる文化、異なる価値観を渡り歩いていけばいいのだ、と。日本人であることを主張するでもなく、隠すでもなく。たとえ、日本人である私とは対立する考え方であっても、「そういう考え方もある」と足していけばいい。そう気づきました。削って受け入れるのではなく、自分の中に新たな価値観や視点を足す。頭の中にいくつもの思考回路を持つ、ということに気づきました。

 そう考えてからはできるだけ広い世界を知りたいと思うようになりました。仕事、出張と旅行や友人訪問を含めて、今まで訪れた国は23カ国、70都市。70都市のうち、43都市では、ホテルではなく、その国を母国とする現地の友人宅に宿泊・滞在しました。「ツアー旅行」に参加したことは一度もないです。シンガポールの我が家も、実にオープンで、よく友人たちを気軽に招き、その友人たちが、また彼らの友人に私たちを紹介して、交流の輪が広がっていきました。

 シンガポール政府と日本政府の通訳や、様々な都市で行われる国際会議の同時通訳士として、まさに数えきれない国籍の方々と仕事を通じて関わる一方、2007年からは、通訳業に加えて、異文化コミュニケーションの講師も務めるようになりました。異文化間のコミュニケーションは、言語だけではなく、むしろ、互いの文化や社会を学び、尊重しつつ、一方的に理解を求めるのではなく、歩み寄っていくことが、WIN-WIN をもたらすコミュニケーションにつながると考えています。



◆カンボジアへ


――シンガポールでの暮らしも安定し、お仕事も順調。それなのになぜ、カンボジアへ来られたのですか。


 カンボジアへはコンサルタントの仕事をしていた夫のキエンが先に行きました。1999年、国連からカンボジア政府の地雷対策センター(CMAC)に派遣されたフランス人技師を通じて仕事を受け、それからカンボジアへ通うようになったんです。

 キエンはカンボジアへ出張するたびに、街や人々の様子、自分の体験を話してくれました。そのころは1997年の武力衝突の後でしたので、首都といえどもまだ治安は安定しておらず、夜間の外出は危険な状態でした。夫の話は私の経験値をはるかに超えた話ばかりで、強く興味を抱きました。当時まだ幼かった息子にも、そのような国を知り、学ぶ機会を与えたいと思うようになりました。

 それが実現したのは2003年。小学4年生の息子と、友人一家とともにプノンペンとシェムリアップを10日間訪れました。その時に突然でしたが、地元の小学校を見学させていただきました。窓が小さく、昼間なのに薄暗い教室。扇風機もなく、よどんだ空気の中に、子供たちがぎゅうぎゅう詰めに座っていました。先生も子供も、みんな靴ではなくサンダルやスリッパだったことも記憶に残っています。

 その後、韓国人の友人がカンボジアで開いているテクニカルスクールにボランティアの英語教師を紹介するなど、縁が深まりました。そしてカンボジアの厳しい現実を知れば知るほど、私たちは何をしたらいいだろう、と仲間たちと話すようになりました。

 カンボジアの長期的な発展を考えたとき、必要なことは子供の教育の充実ではないか、ということになりました。質の高い、ポジティブで、学ぶことを喜び、楽しめるような幼児教育の場を作ろう、と友人家族を含めた仲間たちが力を寄せ合うことになりました。そして、コンポンチュナンに一軒家を借りて、2009年、サンキム・カナンスクールが幼稚園としてスタートしたのです。

 そのころ私たち夫婦はシンガポールからカンボジアに通ってスクール運営に携わっていました。2017年には私たち夫婦はカンボジアに移住することを決め、キャンパス内に私財を投じて自分たちの住まいともなる学生寮「ベタニ―ハウス」を建設しました。それが完成したのは2019年です。以来、ベタニ―ハウスで暮らしています。



――サンキム・カナンスクールは、創設から12年がたちましたが、当初考えていた学校になりましたか。


 そうですね、一貫校を立ち上げ、幼稚園児だった第一期生はもう高校二年生になりました。私たちが目指したのは「カンボジア人の、カンボジア人による、カンボジア人のための学校」です。立地をプノンペンではなく、コンポンチュナンにしたのも、この国の貧困のスパイラルを断ち切るには、良い教育が地方に根付くことが大切と思ったからです。この目的のために、私たちは学校運営の様々な側面を、地元のカンボジア人たちと相談してきました。

 たとえば、授業料。私たちは、授業料を無料にしてできるだけ多くの子供たちが質の高い教育を受けられるようにしたい、と提案したのですが、カンボジア人は授業料を徴収した方がいい、という意見でした。「対価を払うことによって責任感が芽生える。無料にすれば簡単に休んだり辞めたりしてしまうし、教育の価値を認識できない」ということでした。そこで、カンボジア側とよく相談しながら授業料を設定し、今では校舎建築など大型支出を除く日々の運営費は授業料でまかなえています。

 学校の生徒たちの家庭は、州知事の孫、前市長の息子など平均以上の経済力のある家庭が約2割、平均的な家庭が約6割、貧困家庭が約2割になっています。貧困家庭の2割にあたる150人弱の子供たちには、授業料の8割に当たる奨学金が提供されています。年間約365ドルですから1日1ドルのサポートですね。

 学校の存在は、地域の人々への就業の機会にもなっています。敷地内には学校食堂や、準備中のファームもあり、現在約50人以上の人々を雇うことができています。学校の生徒たちは、必ずしも都会にあこがれているわけではなく、家族と一緒に地元で働きたいと願っている子もたくさんいます。将来は、彼らが卒業後に働く場所を多く作りたいと思っています。

 


 また、ハード面の学校施設の建設だけでなく、ソフト面の学校カルチャーを培うことも大切だと考えてきました。その軸になるのは、質の高い教師の確保と養成です。先生が上から押さえつけるような指導方法ではなく、生徒を励まし、新しい技術を学ぶことに前向きでポジティブなカルチャーと環境を作り出す、ということは、至難の業でした。そこで私たちは独自に教員を育てることにしました。高校卒業者以上で「伸びしろ」を持つ人材を採用し、教員取得コースや夜間大学で教員資格を取得させ、休暇期間には教員養成トレーニングを私たちや海外からのトレーナーを招いて実施しています。学校には教員宿泊棟も作り、コンポンチュナン以外からでも応募できるようにしました。加えて、いつか、サンキム・カナンスクールの卒業生が教師としてこの学校に戻ってくるようになれば、さらに質の高い教育を持続的に実施できると期待しています。



◆異文化があぶりだす「私が持っていないもの」


――学生寮ベタニ―ハウスにはどんな生徒たちがいるのですか。


 ベタニ―ハウスには、高校生4名、中学生1名の5名がいます。学業優秀で、学ぶ意欲もあるのに、両親が離婚したり別居中であったりなど複雑な家庭環境で十分に勉強ができない子どもたちです。高校生4人は、サンキム・カナンスクールに通いながら、アメリカ人教授の指導による英語のオンライン高校コースを受講しています。それもあって、ベタニーハウスで話す生活言語(読み書きも含めて)は、英語なんですよ。

 この国際的に認証されているアメリカの高校卒業認定証で、彼らは、アメリカ、カナダ、オーストリア、イギリス、シンガポールなど英語圏の大学入学試験受験資格を取得することができます。今のところ、カンボジアの一般的な公立高校の卒業生は、まだこれらの大学の入試受験対象者としては受け入れられていないため、カンボジアを越えた英語圏での大学留学と、在学中のホストファミリー紹介も含めて、彼らの将来が大きく開けていく軌道ともなります。


 ベタニ―ハウスで子供たちは、勉強だけでなく、共同生活をしながら正しい生活習慣も身につけていきます。

彼らの親や祖父母の世代は、クメールルージュや内戦時代を生き抜いた人々です。深い傷跡がどの人の心にも生々しく刻まれ、家庭も教育の機会も奪われてきました。夫婦としての役割と責任、親としての在り方や親子のコミュニケーション、家族の愛情表現など、周りに与えたり教えたりしてくれる人がいなかったと思います。だから、自分たちの子供たちに対しても、どのようにあるべきかが分からず、すれ違ってしまっていると感じます。

 私たち夫婦はベタニ―ハウスでハウスペアレントとしての役割を担っていますが、彼らの「親」とすり替わろうということではありません。子供たちの、親に対する葛藤をケアしつつ、理解や受け入れに傾いていくよう、気持ちや経験を分かち合い、語り合い、時には個人カウンセリングをしています。

私たち夫婦が完璧なお手本、という意味ではありません。意見の食い違いや誤解も失敗もあります。ただ、そういう不完全さがある私たちが、お互いの不完全さをどのように乗り越えているのか、どうすればより良き相互理解ができるのか、家族として成長していけるのか。それを、四六時中一緒でごまかすことのできない日常生活で見せながら、子供たちとともに学んでいこうと思っています。





――異文化の中で生きること、シンガポールとカンボジアでの経験は、明子さんご自身をどのように変えたと思いますか。


 昔からの知り合いは、私がすごく変わった、と驚きます。もっとストライクゾーンの狭い人間だった、と笑い合います。異文化に接すると、自分がこれまで持っていなかったものがあぶりだされるんですね。

 日本からシンガポールへ行き、それまでの経験値が通用せずにぶっとびましたが、カンボジアに出会って、またそれまでの経験値がぶっとんでしまった。知らなかった世界が、ここにもあったんです。「自分がもってないことが見えてくる」ってすごく大切。謙虚になりますし、それはすなわち、どんな人に対しても同じ人間として敬意を払うようになるんです。異文化の中で生きることは「人間の枠を広げる」ということかな。寛容になるんです。もってないことが見えてくるので、そこを足すべき新たな発見や経験や学習が生まれます。「自分」を基準にとらえて良し悪しを決定していたのが、限定された「自分」に気づくと、寛容の枠が広がりますね。



 そして寛容になった自分が次に求めるのは、「ぶれない軸」でした。自分の枠を広げれば広げるほど、芯になるぶれない軸が必要になってきました。たとえばここカンボジアで、予定通りに運ばないことがたくさんあった。これもカンボジアのやり方なんだな、と理解を示せることが増えました。

 でも、今までの暮らしに「計画性」が必要なかったがゆえの、彼らの無計画性を私が受け入れると、カンボジアはなかなか前進しない。インフラの未整備も含めて、できない環境が原因であれば、どこまでが彼らの成し得る領域で、どこからが「できない原因」なのか。それを頭ごなしに叱責するのではなく、彼らの経験値を理解し、自尊心を傷つけず、新しいことを達成できた喜びを味わえるように、寛容に、時間をかけて教えていく。自分が期待した結果が彼らから得られなくても彼らに失望するのではなく、教え方をどう改善できるか、と考えるようにしています。

それはぶれない軸としてもっていこうと今も思っています。

 30年近くを日本で過ごし、30年をシンガポールで過ごし、今またこれから30年以上をカンボジアで過ごすんでしょうね。そう考えるとカンボジアの暮らしは私の人生の集大成になりそうです。まだまだたくさんの喜びと感動を楽しみにしています。




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